中近東か北アフリカのような場所。それはマラケシュであってもかまわない(中山可穂の小説の舞台であったり、宝塚歌劇の舞台であったりした街のことだ、ぼくにとっては)。そんな憧れや悲しみといった感情だけで成立しているような土地(この舞台美術のこと、どのように説明すればよいのだろうか)。男と女が繰り広げる、とても短くてとても長い時間のこと(1時間という作品の時間の中で、男と女がこの世の中でしそうなことをすべてやってのけたのを見せられたような気がする)。

  乱格子のように、規則的でなくしかしおおむね均質に張りめぐらされた紐に男も女も絡め取られる(しかし実のところ、絡まったふりをして女が男を陥れる罠だったようにも思える。美術=スエモトタモツ)。絡まった女を助けるために紐を小さなはさみで切っていく男(はさみの小ささは、男の、ぼくたちの無力さの表れででもあるのだろうか)。絡まった男は自分で紐を切って行くしかないわけだ(その間に女は遠くへ背泳ぎ)。やっと出て来れたと思ったら、女に睨みつけられてしまうわけだし(男なんて割に合わないもんだなあ)。とか思っていると、音と光がエッジをたてて貫入する)。

  どうなんだかなぁ、この二人(震え、瘧が起きても、なかなかふれあうことはしないのだが、やがて)。走り、手をのばし、抱き合い、また離れ、求める……そんな一連の動きも、何かに動かされてそうしているように思える(それはきっとこの土地の、つまり舞台美術が作る世界の空気みたいなものがそうさせているのだ)。いつの間にか男も女もさかんに腰を上げ下げしているが、さぁこれは交合と見てよいのだろうか、ただ憑かれたように、体内に何かが入ってしまったように同じ動きを繰り返しているだけなのか、おい、お前らどうなってんだよぅと、こんな所でそんなこと、おっ始めるんじゃねえよ、とおだをあげたくなるような振る舞いである。

  やはりその後は眠りに落ちると決まっているのか、女はスーッと息を吸ったかと思うと、立ったまま眠気に堪えきれず、こちらを睨みつけたり、いびきをかいたり(自分に腹を立てているからと言って、他人を睨みつけてはいけません)。今度は男が女の膝の上で眠りに落ちたかと思うと、起き上がった男が女を引きずって歩き始める(掃除機みたいに、女の体はかき集める)。女は悲鳴なのか笑いなのか、婆ぁのような声をあげる(つられてぼくたちも笑ってしまう)。全く訳のわからない言葉で、歌が聞こえてくる(訳がわからないのが不愉快かというと、むしろユーモラスだ……ミコシャーペンベナホイ…?)。

  2つの小動物が繰り広げる激しいユニゾンの趣きは、何だか安っぽいディスコのようなものになってしまう(ディスコの気分って、もうレトロなものなんだろうなぁ)。スカートめくって手眼鏡で見たり(ワイセツ感より遊戯感覚が漂ってくるところがいいよね、子どもの遊びみたいな)。
  男は鳥のように羽ばたいてみせるが、すぐに足を滑らせて昏倒する(やっぱりね、と思う)。二人は社交ダンスのように踊ってもみせるが、何だか別の世界にいるみたいだ(所詮はそういうことなのだけれど)。やがて数々の走り方のバリエーションを見せるように円を描いて走り始める(この空間の中を走るだけではなくて、無辺の世界を翔けているように見える)。そして女もシューッと鳥になって、幕が下りた。

  ※ダンスを観て、受け止めて、内化して、できれば誰かに伝えるためには、伝達するための言葉をも身体化することが必要だと思っている。具体的には、話法を含めた方法論、文体をいつも新しいものとして、できれば作品ごとに生み出せればいい。たかが物書きが傲慢なと言われるかもしれないが、作品をいとしく思う心だと言い換えてもいい。この作品を体験したことをなるべくライブな形で残しておきたいと思う、そういう作品だった。腰を屈めた独特の歩き方が、老人のようだったり幼児のようだったり小動物のようだったりといろいろに思えるのが楽しくて、変幻というのとはまた違うのかもしれないが、ある様態に固執しながらも自在であり、前作をふまえながらも新鮮であって、ワクワクしながら観ていた。続々と新作を発表しているようだが、次作がまた楽しみだ。

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【横田茜】
私はもともと舞台美術に興味があったこともあり、DBでの数少ない舞台美術が観れるチャンスということでこの公演は見逃す訳には行かなかった。かつ、仕込みの手伝いにまで参加させてもらった。私は大学時代に彫刻をやってたのですが、舞台美術担当のスエモトさんもなんとなく彫刻やってたっぽいなって思ってたら、やはり彫刻科出身でした。どこがどうというわけ訳ではないけれど、材料を生のまま使ったり、素材感を統一したり、その空間表現が視覚よりも触覚や感覚的だった部分がそう感じさせたのかも。
仕込みをやって、ここでどんな事が起こるのかと楽しみにしてた、公演当日。照明の妙もあっていつものDBの黒空間が全く別に見えたのがとても新鮮でした。パフォーマンスの方も美術を生かした動きが取り入れられてたりしていいと思ったのと、いろんなシーンや曲の展開であまり時間を感じさせなかった。余談ですが、仕込みの時のj.a.mさん達の雰囲気がとてもいい!おもろい人達でした。ビデオに撮ってみんなに見せてあげたい位です。この感じが演出・美術・パフォーマーのいいコラボレーションを生んでるのだな、と、公演後フムフムと勝手に頷きながら家路につきました。
以上、仕込みも含めたj.a.m公演リポートでした。

【小坂井雅世】
赤い幕があがると、紐で拘束されたステージは、いつもとはまるで表情が違った。藁の上に男女のダンサー。こちらからは拘束された二人に見えるが、むこうからはこちらも拘束されているように見えるのだ。こちらにはおかまいなしに踊り続ける、機械仕掛けの人形のようだが、その人形の動きは、人間と人間の関係を誇張したかのようで、あやつられているかに見えたと思ったら、突然笑い出したり。操っているつもりだったのが、実はこちらはからかわれていたかのようだ。幕がおりる。しかし中はまだこの続きがこちらにはおかまいなしに続いているような。アフタートークで相原さんが「抽象的なダンス(カニングハムのような)もいいけど、今は演劇的なものに興味がある」と言っていた。確かに、相原さんもゆっていたが「見せ物小屋」をのぞいているかのような感じを受けた公演だった。

【日指貴子】
四方を大量のロープで囲まれて、その中で何かをしている人がいて、それを見ていると、これが人生なんだなという気がしました。最後赤い幕がゆっくりと下がっていく時、色々な感情が複雑にからまりながら湧いてきました。ロープの中では何が起こるということもなく、ただ営みがあるように思いました。平和に暮らすということは何かに捕らえられているということでもあるのではと気付きます。今回私は作品を見ている側でしたが、今、平和に暮らしている私もきっとロープの中にいるんだろうなと思いました。

【横堀ふみ】
劇場へ行く、普段の生活から一歩違う世界へワープする、そんなドキドキ感が詰まったはじまり。舞台と客席を仕切る赤のカーテンがぐいぐいと上に上がるとともに、期待感も増していく。そしてじわじわと姿が現れてくる舞台美術の中で繰り広げられている住人の平熱にじょじょに自分の体のテンションを合わせていく。住人の二人は、何をしゃべってるのか、そして何をしゃべっていないのか、そんなことを想像しながら見続ける。いろんな言葉がここかしこに散りばめられているよう。コンテンポラリーダンス公演でよく普段の日常から切り取ったダンスや日常の中の非日常などの文言を目にして、作品を観て、で結局、日常って何なんだ!と思ってしまうこともあるのだが、異世界に住むある住人のある一日が作りこまれた今作品は逆に自分の日常を思い返してくれる力もあるのだと実感

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最終号の発行が大きく遅れましたことをお詫び申し上げます。
大阪BABAにお越しいただいた方、この通信を見ながらBABAの模様を想像してくださった方、どうもありがとうございました。
今回のBABA記者はDANCE BOXボランティアスタッフで構成、手ごたえを感じながら進めて来ました。 今回できたことを足がかりに、新たな通信発行をくわだてています。DANCE BOXホームページで改めて発表しますので、楽しみにしていて下さい! 
では、今後ともどうぞ宜しくお願いいたします。 ありがとうございました。

BABA記者:上田美紀、横田茜、市川まや、上藪恵美、小坂井雅世、日指貴子、鈴木知子、塚原悠也、横堀ふみ   
編集:横堀ふみ  
WEBデザイン・製作:内山大  

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