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【公演レビュー】中間アヤカ&コレオグラフィ「フリーウェイ・ダンス」2/3(竹田真理) | BLOG | NPO DANCE BOX

2019.6.30

【公演レビュー】中間アヤカ&コレオグラフィ「フリーウェイ・ダンス」2/3(竹田真理)

REVIEW

だが本作の動機の中心はむしろ芸術上の問題意識のほうにあるだろう。公演を行うにあたって中間は「ダンスの振付・演出の専門家ではない人たち」にインタビューを実施し、「初めて踊った(身体がダンスした)ときの記憶」について話を聞くということを行っている。自身のものではない、他の人の記憶をもらい受け、振付として扱うことを試みているのである。踊りが踊り手自身の記憶に根差すものとするのではなく、外からもたらされるものとして扱おうとするこの方法により、中間は、振付や身体の定義やイメージを捉え直そうとしており、その問いの立て方に、振付家でも演出家でもない、踊る身体をもつダンサーならではのリアルな問い掛けが現れていると感じられるのだ。

中間はしばしば「振り付けられる」身体という言い方をする。ダンスする身体を受動的で他律的なものと感じ取っている言葉だろう。中間に限らず、最近、人の振付を踊るのが好きである、振付がなければ踊れない、と話すダンサーの言葉に出会って新鮮に感じることがある。それらはコンテンポラリーダンスにおけるダンサーと振付の関係について、振付家に使役されるコマではなく、クリエーションにおける対等なパートナーであり思考を共有する共同作業者とされてきた見方に対し、異なる存在のしかたを示唆するものであるように思われる。ダンサー自身がクリエーションに資するような創造的な現場において、自律的で主体的なダンサーの身体が思考やコンセプトを共有する限り、振付と踊る身体とは同一のオリジンのもとにある(自作自演はこの究極の形態といえる)。一方、「振り付けられる」身体は、あらかじめ、そして常に振付との差異のもとに置かれ、その間で無数のやりとりを行うだろう。

 

クリエーションにおける主体的、能動的な身体は、自律し、完結した、閉じた身体だ。閉じた個である身体の内部から自発的に生まれてくるものは、当の身体に固有のオリジナルな動きである。一方、振付は、自他との相関において、やりとりの段階を前提している。動きを自身の内的な発露として生み出す閉じた身体と、外部や他者からもらい受けるエージェントとしての身体(ボディ、抗体)とは、そのあり方、様態、「態」において異なる存在であるだろう。後者において、振付は身体に訪れ、現象し、去っていく。所有されず、改変不可であり、それゆえに強度と形象を備え得る。振付はダンスする身体への贈与であり、身体は個の輪郭を失いつつ他者へと開かれ、これも中間の言うところの「ダンスとしか呼ぶことのできない時間」を待ち受ける。あるいは憑依と言ってもいいかもしれないが、いずれにせよ身体が個であることの固有性(の呪縛)から解き放たれる可能性をもつ。

(3/3に続く)

観覧日:2019年3月23日

 

 

 

 

 

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