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【公演レビュー】国内ダンス留学@神戸11期Newcomer/Showcase#3 Solo Dance Artist 最終成果上演【文:岡元ひかる】

国内ダンス留学@神戸11期 Newcomer/Showcase#3
Solo Dance Artist 最終成果上演

日程:2026年2月28日(土)18:00、3月1日(日)14:00
会場:ArtTheater dB KOBE

▶︎公演詳細

Photo by Junpei Iwamoto

国内ダンス留学@神戸11期 Newcomer/Showcase#3
Solo Dance Artist 最終成果上演

文:岡元ひかる

 

遠藤七海『婆美肉塊』

お盆になると、先祖の魂が家にやってくる。ナスやキュウリに串を刺して動物に見立てる風習では、人々が野菜に魂の存在を感じ取る。本作にも登場した精霊牛は、先祖の魂を乗せて運ぶ役目を負っている。現世と死後の世界、生命と非生命の領域をシームレスに行き来する魂との交流が、この行事では大切にされてきたのだろう。このお盆を重要なモチーフとする本作では、魂が一つの肉体に常住せず、居場所を変えて漂うことの儚さや無常さ、そして自由さが浮かび上がってくる。バービー人形や、作者の遠藤の体は、魂にとっての仮住まいのような場、あるいは容れ物として登場した。

「こんバービー!永遠の 92 歳でーす!」と、若くてハリのある声を吹き込まれた人形は、それに続いて自分の昔話を老人さながらに語る。遠藤は、亡くなった自分の祖母から借りてきたような渋い服を身につけている。だがその踊りはファッションの雰囲気とは裏腹に、生命感にあふれてエネルギッシュだ。かと思うと、両腕を前方へピンと突き出して動く様子が、ゾンビ、すなわち魂の抜けた身体を彷彿とさせもする。生と死、若さと老いのイメージの奇妙な組み合わせは、生命や意識の条件としての魂と、物質的な容れ物との分離可能性を強調するようだった。

Vtuberの黎明期に流行した「バーチャル美少女受肉」略して「バ美肉」は、まさにそうした魂の融通無碍な性格を実現する技術と言えるかもしれない。それは現実の人間(その多くが中年男性だった)が、美少女の姿形をしたアバターに、運動や声のデータを吹き込み美少女を演じる活動である。ここではもはや魂は着脱可能とも表現できそうだ。VRゴーグルを装着して動く遠藤は、魂が運動する空間に、仮想と現実という軸を加えることで、死や弔いに関わるテーマを、先端技術のテーマに大胆に接続していた。

最も記憶に残ったのは、一人で行われた輪舞だ。盆踊りが踊られたあと、下から上へ何かを突き上げるような動き、身体を揺らすスウィング、何かを身体から払うような動きが繰り返される。その様子は昔の日本で、鎮魂が「たまふり」と呼ばれていたという、折口信夫をはじめとした民俗学者たちの説を思い出させもする。それはまるで身体に付着する「たま」を賦活するようにも、あるいは祖母に扮する体に「触れ」ていた魂を遊離させる独自な儀式のようでもある。

魂とは何か? ダンスという芸術の性格を生かし、それが往来や運動という視点から、さまざまに試論されていた。

 


 

福島頌子『|マ・』

「腕が振り子」「足が浮く」「上半身をツイストさせて進む」「腕が旋回する」「もぐる」「大小様々な円運動」「目が回る」「後退り」。場内アナウンスのような音声が、ダンサーに向けられた動きの指示として淡々と流れる。このアナウンスを仕込んだ福島は動きの指示者であり、この指示に即応して動くダンサーでもある。どんな自作自演のパフォーマンスにも通ずる指示の再帰性が、こうして舞台上で可視化されていた。それは福島が未来の自分に宛てた手紙を開封するのに立ち会うような時間である。

手紙はまず、順番に、個別に開封されてゆく。腕を振り子のように揺らし、次に足を床から浮かせ と、逐語的に言葉が身体に翻訳される。ところがやがて、福島はある指示に…
いったん従ったら、その動きをやめないまま次の指示に従うように変化していく。「なでる」「でんでん太鼓」「はねる」「両手を広げる」。タスクの増加によって身体のメモリが逼迫し、すべての指示を漏れなく体現するというルールのもと、容赦のないアナウンスのテンポに動きが翻弄される。行為の主体性が福島から奪われていく。

不思議なことに、私たちの身体は、同時にいろいろな感覚を複層的に保持することができる。一方で、この作品で使われた指示の数々は、ダンサーの感覚に働きかけるためのものではなさそうだ。「でんでん太鼓」の時、福島はでんでん太鼓の紐に見立てた両腕を、胴に巻きつけるようにブラブラさせる。「両手を広げる」では、文字どおり、両手を広げる。言葉は、むしろ記号的な身振りに変換されるために準備されたようである。

それによって際立っていたのは何だろう。動きの質感とも、情緒とも言い難い。代わりに迫り上がってくるのは、ある瞬間に、一つの座標空間のどこを、どの身振りが占めるかという陣取り合戦のような問題だ。「でんでん太鼓」における腕のポジションと、「両手を広げる」における腕のポジションは、同時には実現できない。だから実現したい身振りと身振りが、同じ土俵の上でぶつかり合う。

振付家が未来の自分に宛てた手紙の数々は、そのような矛盾を積極的に、そしてストイックに要請する。そこで身振りと身振りが火花を散らすようにクラッシュすると、福島の身体からコントロールが不恰好に失われ、不自由きわまりない様相を呈する。しかし逆説的なことに、この動きの争点のような一瞬においてこそ、福島の身体はいかなる記号にも目的にも縛られない、束の間の自由を獲得していたと考えられやしないだろうか。

 


 

火野7『x10(カイジュウ)』

ほの暗い舞台の奥で、白い何かがうごめいている。フリンジのようなもじゃもじゃ、ダラリと床に垂れる脊柱。客席の方を向いているのか、それとも背を向けているのか。どっちがトップでどっちがボトムなのか。いずれも正解であり、不正解な気もする。こうして見る者の知覚を倒錯させる「カイジュウ」は、その形態、ひいては自己が何者であるかを未決定なままにしておく存在 X だ。

後半になるにつれ、ダンサーが身に纏っていた白い装飾が少しずつ分解されてゆく。徐々にヒトの頭や腰のような部分が見え隠れするようになるのだが、それはまた、カイジュウの内臓のようにも見える。身体の中身が外へ露わになってゆく様子は、どこかグロテスクな印象を与えた。哲学者のミハイル・バフチンは「グロテスク」な存在について説明するとき、身体を外へと開く水門としての口、肛門、鼻腔といった孔を強調した。作中のカイジュウは、哺乳類のように丸くうずくまっていたかと思えば、転がりながらとつぜん鋭い突出部を出現させもする。こうして身体の開口部だけでなく、突出部が、自己の境界を不安定にすることで、ときに忌避感すら覚えさせる、得体の知れなさを醸すのである。

ならばそれは、妖怪や怪物とは呼べないのか?振付家は終演後のトークで「好きなもの」を連想して電車、ロボット、ビル、そして「カイジュウ」が発想されたと語っていた。明るいトーンで説明されるカイジュウのイメージは、核の恐怖や社会の不安が生み出したゴジラからも離れている。

上下も内外もあべこべ。このような逆転が起きている場は、確かに不気味な印象を与えるかもしれないが、その一方である種のおかしみも感じさせる。それは堅苦しい秩序や、社会の力関をひっくり返してしまうような、非日常のお祭り的パワーを秘めてもいる。おもちゃ箱をひっくり返すような、楽しく賑やかな転覆とも言えようか。

作中、最終的にカイジュウの中から姿を完全に現した振付家は、不気味なオーラごと脱ぎ去って、白いスポーツブラとパンツだけを身につけた、等身大の姿で舞台に仰向けになった。それは、社会の中で個人が演ずる役柄や仮面をいっさい取り去った、無垢な存在のメタファーのようにも見えた。目の前の存在が「何者か」を問うこと自体への問いが、こうして最後まで投げかけられていたように思う。

 


 

後藤禎稀『適量を越えた恨みを込めて』

本作では、実の父の老いと衰弱に直面した振付家のモノローグが文章として背景に投影される。親族の葬儀に参列するため地元に帰って、ひさびさに顔を見た父親は、振付家の知っていた父親ではなくなっていたようだ。物忘れをするようになり、日常的な動作がおぼつかず、すっかり痩せていた。それまで信じていた父のイメージの崩壊が振付家にもたらしたのは、戸惑いや不安、そしてそれらが転じた恨みや苛立ちである。 〈なんなんだこれは〉〈感情を抑える薬を投薬しなければこんなことにならなかったのでは 。〉過呼吸のように速く浅い息遣い、床をのたうち回り、這いずり回る振付によっても、その心の内が吐露される。

大事な何かをとつぜん失ってしまった時、その対象に注がれていた心のエネルギーが解消されないまま、行き場を失くすことがある。この体験がもたらす耐え難いつらさや悲しみに向き合い、気持ちの整理がついてくるプロセスが、ある種の「仕事」のように語られることがある。精神分析で有名なジークムント・フロイトが、父親の死を悼む自分の体験を後から「喪の仕事」と名付けたことが、その背景にはある。

ダンスボックスの劇場での上演に適した形に仕上げられた本作が生まれるまで、おそらく振付家は自分の内なる「適量を越えた恨み」と向き合い、それを整理・取捨選択し、作品の要素として構成するプロセスが必要だったことが想像される。もしそれが間違いでないなら、本作はプロフェッショナルな創作という形に落とし込まれた「仕事」の一部としての解釈を許すだろう。さらにそれを上演することは、自己のカオティックな内面を、観客という他者に開示して語る行為としての「仕事」でもある。

作品の序盤では〈男としては外では母親のことをお袋と呼んでいる〉という、小さな秘密が明かされる(文脈上「ママ」や「お母さん」等ではなく、という意味だろう)。振付家が不安げに自分の指を咥えるシーン、また震える両手を股に挟む動きも印象的だった。そして〈父が泣いた姿を見た〉というつぶやきのような独白は、振付家の中でいったい何が喪失されたのかを一挙にこちらに察知させる。それはタフな心身を備えた「父」の像であり、それはさらに「男としての」振付家が自己に課すイメージと一部重なるものでもあったことが伺える。

この「父」の喪失は、振付家の、道に迷った子どものような不安定さと脆さを露呈させた。ただし、それらはすべて舞台上の出来事である。戸惑いや怒りは、半分は振付家にとっての本物の現実として、もう半分は自作自演の虚構としてそこに出現する。自伝的とも言うべき本作では、振付家の傷が、パフォーマンスの虚構性というベールに保護されながらも生々しく自己分析されてゆく。このような分析にとって、観客というパブリックな他者の存在は、欠かせないのではないだろうか。

 


 

 

高瀬瑶子『L U M P』

振付家の高瀬は、ある小説との出会いをきっかけに、身体に刻まれた「痛み」を掘り起こしたと述べている。その体験についての具体的な言及や小説の名前は、上演中にもプログラムノートの中にも登場しない。作品の着想源の核は、最後まで奥ゆかしく隠されていた。

高瀬の動きそのものは、全体的に無駄な力が省かれ、心理的な痛みの重々しいイメージを感じさせない。片足でバランスを取ったり、重心を不安定にして身体の軸をズラしたり。床に崩れ落ちる動き、方向をあくせく切り替えながら走る振付においてさえも、強靭な体幹と関節の広い可動域が実現する、軽やかさやシャープさが際立っていた。高瀬が心の奥に発見したという「塊」のゴロゴロとした異物感や、激しかったはずの痛みの感覚は、舞台の上では詩的な振る舞いや運動へと抽象化されている。本のページをめくってゆくように、丁寧にシーンが展開していった。

このように洗練された作品のトーンは、その背後にある振付家の傷や、抑圧された怒りの存在を、かえって強く仄めかすことになる。とくに作中の様々なモチーフは、高瀬の記憶や心情の寓意のように効いてくる。真っ赤な色で統一されたショートパンツ、ダウンジャケット、スニーカーは、脚の肌色とのコントラストによって、剥き出しの肉を連想させる。高瀬が舞台の縁に腰かけ、水入りのボトルの栓を開けると、中身が黒く染まってギョッとさせられる。その液体を平然と飲む様子は、うっすらと痛々しく、会場に静かな緊張感を与えた。

自分の心が傷ついたという事実を明確に自覚した時にはもう、ずいぶん時間が経っていて、あの時すぐに怒りを言葉にしたり、無理をするのはやめたりすればよかった…と後悔したことはないだろうか。自分の痛みを笑ってやり過ごした記憶を抱える誰もが、この作品の主人公になり得る気がした。中盤で使用された音源の、囁くような「あっ」の音の連発は、誰かが胸の内で小さく何かに気づくようで、チクリと胸に刺さる。後半になると、高瀬はダウンをたおやかに畳んで、靴や靴下も丁寧に脱ぐ。四角形のスポットライトのなかを覗き込む。髪をかき上げる。正座する。これらは情緒と、冷たいタスクの中間にある温度感で遂行されてゆく。そして、決して笑わないが、感情を曝け出すわけでもない抑制された高瀬の表情は、自己の痛みや異和感をありのまま表現することを妨げる抑圧への、静かな抵抗のようにも受け取れた。

 

photo : Junpei Iwamoto


 

「国内ダンス留学@神戸12期」実施決定!

国内ダンス留学@神戸11期の学びと熱量を受け継ぎ、12期の実施が決定しました。
募集に関する詳細は近日公開予定 です。 続報をお楽しみに。

 

この記事に登場する人

岡元ひかる

ダンス研究者・ドラマトゥルク。博士(学術)。兵庫県立芸術文化観光専門職大学助教。暗黒舞踏やコンテンポラリーダンスに着目し、振付や稽古の手法に関する研究を行ってきた。近著に「諸可能性が踊られる空間-岩渕貞太のメソッドに着目して-」(『芸術文化観光学研究』第3号、2024年)、「TARB書評:宇野邦一 『土方巽 衰弱体の思想』」(ウェブサイト『Tokyo Academic Review of Books』、2022年)、「舞踏訓練「虫の歩行」における身体経験の再検討-土方巽の弟子・正朔の実践に注目して-」(『舞踊學』第42号、2019年)などがある。

2026年4月17日 時点

遠藤七海

1997年東京生まれ、東京育ち。小学生の頃からダンスを始め、中高生時代に演劇、大学でコンテンポラリーダンスに出会う。
2020年、立教大学現代心理学部映像身体学科卒業。
日常における「振り付けられた身体」に着目し、調理や飲食を取り入れたパフォーマンスを積極的に行う。
自身の祖母を題材にした『婆美肉考』にて、STスポット「ラボ20#24」にてラボ・アワードを受賞。
パフォーマンスや作品制作と並行して、舞台芸術の企画・制作にも携わる。最近ではアーティストのための実験の場「Co-lab」を定期的に開催している。
形式に捉われず、アートと食の観点から幅広くコミュニケーションを模索しており、地元・東京都大田区では、間借りカレー屋「コオドリ」を不定期で営業中。

2025年7月21日 時点

大洞博靖

福島頌子

パワフルな身体と変幻自在な表現が持ち味。
様々な振付家の作品に出演する傍ら、自身での作品創作や企画主催、音楽家やダンサー、美術家との即興セッションにも力を入れて活動している。
これまで加賀谷香、皆川まゆむらの各氏に師事。
2025年4月には、皆川まゆむが演出・振付を手掛けるソロパフォーマンス『彼女の不在』に出演。

2025年7月21日 時点

火野7

幼少期からバレエやジャズダンスのレッスンを重ね、高校卒業後よりカリフォルニア芸術大学にてコンテンポラリーダンスを学ぶ。現在は大阪を拠点にダンサー/振付家として活動している。創作活動の傍ら、身体表現者のための英語を学ぶプロジェクトの立ち上げを計画中。

Instagram: @hinonana7

2025年7月21日 時点

後藤禎稀

京都造形芸術大学にてコンテンポラリーダンスを学ぶ。2019年Super Dを結成。
ルイス・ガレー、倉田翠、はなもとゆか×マツキモエ、Monochrome Circus、小倉笑、山下残、東野祥子の作品に出演。
青少年向けダンス創作WSのナビゲーターを務めるなど、京都を中心に活動を行っている。

2025年8月29日 時点

Masaaki Tanaka

高瀬瑶子

幼少よりモダンバレエを始め、16歳より橘バレエ学校にてクラシックバレエを学ぶ。出産を経て進化/退化する身体との対話を重ね、”骨で動ける身体”をテーマにダンサーとして活動中。ジゼル・ヴィエンヌ、白井晃、森山開次、中村恩恵、近藤良平、青木尚哉等の作品に出演。近年では能や演劇、光など他ジャンルとの協働により生まれる表現も探究している。また、ダンサーならではのアプローチで子どもの教育に携わるべくワークショップなども行う。

2024年5月8日 時点

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