【公演ショートレビュー】国内ダンス留学@神戸11期Newcomer/Showcase#3 Solo Dance Artist 最終成果上演
国内ダンス留学@神戸11期 Newcomer/Showcase#3
Solo Dance Artist 最終成果上演
日程:2026年2月28日(土)18:00、3月1日(日)14:00
会場:ArtTheater dB KOBE
Photo by Junpei Iwamoto
5つのソロダンス作品を上演した、国内ダンス留学@神戸11期 Newcomer/Showcase#3『Solo Dance Artist 最終成果上演』。各作品に対して、レビューをお寄せいただきました。
文=澤井まり(チャリティーショップ シオヤコレクション代表 塩屋盆踊りの会メンバー)、山下残(振付家)、江橋麻耶(シンガー)、小松菜々子(ダンサー・振付家)、齊藤文也(大学生/ケモナーティスト)、斉藤綾子(ダンサー)、永井友理(株式会社フェリシモ)
『婆美肉塊』 作・出演:遠藤七海
-執筆者-
◾️澤井まり (チャリティーショップ シオヤコレクション代表 塩屋盆踊りの会メンバー)
◾️山下残 (振付家)
『| マ・』振付・出演:福島頌子
-執筆者-
◾️江橋麻耶 (シンガー)
◾️小松菜々子(ダンサー・振付家)
◾️山下残 (振付家)
『χ10(カイジュウ)』振付・出演・衣装制作:火野7
-執筆者-
◾️江橋麻耶 (シンガー)
◾️齊藤文也 (大学生/ケモナーティスト)
◾️山下残 (振付家)
『適量を超えた恨みを込めて』 演出・振付・出演:後藤禎稀(Super D)
-執筆者-
◾️斉藤綾子 (ダンサー)
◾️山下残 (振付家)
『 L U M P 』 振付・演出・出演:高瀬瑶子
-執筆者-
◾️斉藤綾子 (ダンサー)
◾️永井友理 (株式会社フェリシモ)
◾️山下残 (振付家)

『婆美肉塊』作・出演:遠藤七海
遠藤さんが取り組んでいる婆美シリーズは、実のおばあさんが亡くなったという出来事に向き合い、納得ゆくまで続けてみるという、彼女にとっての弔いの儀式で、とても個人的なものです。同時にそれは、身近な人が死を迎えたとき、誰もがそれぞれのかたちで昇華するしかないであろう、答えの無い普遍的なテーマを扱った作品とも言えるでしょう。
現代において盆踊りは、単なる夏の娯楽のひとつであることが多くなっていますが、言わずもがな、もともとはお盆で迎えた先祖の霊を送り出す意味合いがあり、今でも遺影を飾ったり、なんと背負って踊る地域もあります。観る側に、漠然としていたとしてもその共通認識がある状態では、遠藤さんが人の輪をなぞらえながら同じ振付けを繰り返し、盆踊りを象徴的に表現する場面は、観る者が彼女の儀式を強く感受する、あるいは共にできるしかけになっていたと思います。彼女という個が薄くなり、何か別の存在と一体化、あるいは対話しているようにも見え、たいへん印象的でした。
リアルタイムの映像と分かった瞬間に、映るのはダンサーの脚とバービー人形。最高のタイミングで挿入された映像はぼやけている。丁寧に重石まで置いた茄子のぬか漬けの肝心の中身は宙に浮いている。言わば引き算を足し算するダンス作品。付け足す要素は気持ちよくマイナスに転じて構築されてゆく。身体に関してはそれぞれの場面で振付の型があるのは明確で、しかし型のクオリティーではなく何か他の意識の注力によって動きのクオリティーを上げようとしているのが感じられる。型を用いた型のないダンス。宙に浮いていた茄子は最後に無事に置石の下に帰り、はじめに意識下に刷り込まれていた茄子のぬか漬けレシピがフラッシュバックを催し、茄子が見えなくなったゆえに再び観客はダンスを追体験する。

『| マ・』振付・出演:福島頌子
厳しいテーマを課したな…。何よりもまず、そう思った。
音楽も照明も、色も、情緒を一切廃した舞台に放り出す身体。淡々と降りてくる指示にただ従い、不自然に捩れていく身体。可笑しくもあり不気味さも孕む。このまま音楽がフェードインすれば、それなりに見えてくる景色とこちらが感じたことの答え合わせができると思ったが、それは最後まで無いだろうとも予感し、実際その通りになった。
すべての舞台設定が予想の範疇で終始しており、ただ、身体だけがそれを超える可能性を託されていた。即興で反応していく身体。大真面目に、「一生懸命」(この「」が取れるか取れないか、も、とても大切だ。今回は「」は取れなかった)に。その過程で、もしかしたら、見たことのない身体の景色、ダンサー自身の予想も超えた軌道に入るかもしれない。ただそのことだけを期待し、助けを設けない、血も涙もない舞台装置。
なんて怖い「実験」をするんだろう。
しかし思いついてしまった以上、ここを通らずに「次」はなかったんだろう。痛々しいほどの切実さを感じた。
ただ、ダンサーが自身のキャラクターを理解した上での決断でもあったと思う。大真面目にやればやるほど喜劇性が増し、生来のものと思われるコメディエンヌ的魅力がまっすぐ立ち現れれば、このダンサーは概ね賭けに勝ったことになる。結果的にこの日、その片鱗は見えた。だが全体を転覆させるほどの力強さはまだなかった。
この日わたしは、ひとりの若いダンサーが、最も厳しい場所に自分を追い込み、これまでやってきたこと習ってきたことを一つひとつ脱ぎ捨てる過程あるいはその葛藤を観た。極めて個人的な挑戦、極私的踊り。
しかし同時に背筋の寒くなる気づきも得た。身体の自然とは無関係に次々出される機械的な指示に、最後まで抗うことなく忠実であろうとして振り回される姿が、この先の人類を暗示しているようにも見えてきてゾッとした。
この時代を生きるダンサーとして、生涯を通じて向き合い続けてほしいテーマだと思う。そして観ているわたしたちに、最後には希望を、見出させてもらいたいと、切に願う。共に生きる仲間としての、わたしたちに。
ダンサー福島頌子の居場所≒基点となる可能性を感じた作品だった。なによりこんな挑戦をするしょうこさんを、わたしはとても好きだ。これからも愛し、応援しつづけたい。
ねむくて起き上がれない朝に、この声が響いてくれたらいいのに。
からだは時々、赤の他人になる。不器用な隣人(自分)に口出ししたくなったりするけど、治りかけの瘡蓋みたいに、放っておくほうがよかったりする。仲良くなろうとすればするほど、からだはどんどん重くなる。壊れかけの恋人みたいに。
高校生の時、ダイエットのために下剤を飲むのが流行っていた。どろどろしたものを全部吐き出してミニスカートを履く。満員電車で痴漢される。プリクラは宇宙人みたいに大きな目と長い足をわたしにくれる。
暗闇のなか、観客を睨むあなたの”からだ”に感情があったとしたら、「怒り」なんじゃないかな。自分と、自分を超えたあらゆる支配に対して。
動作を言葉にした声とレコード針のような心地よい微かなノイズが舞台左側のスピーカーから聞こえてくる。それに呼応するかのようにダンサーの左側の靴だけが途中で脱げ落ちる。たくさんのフレーズがある中で(大小さまざまな円運動)のリピートに中毒性があり、大小さまざまな円運動、来い!来い!と先々を期待させる。シンプルなひとつずつのフレーズが点描画のように塊となって大きなムーブメントに展開していく構成は、イメージするのは簡単でも実行は難しく、この作品が上手くそこを成功させているのはダンサーの技術力と安定感によるものだろう。もうひとつの声がスピーカーから重なった瞬間にもうひとつの靴も脱げ落ちたのは激しさを増すダンスによる偶然なのか必然なのか。混沌の先にはろうそくの灯りのような言葉にならない動きが立ち現われ、暗転していくと同時にエレクトロな音楽が、今度は左右のスピーカーからレコード針の音なくデジタルに鳴っていた。

『χ10(カイジュウ)』振付・出演・衣装制作:火野7
大好きな作品に出会えた。
カイジュウの衣装がうつくしかったし、それを纏う身体が大分後半まで見えず、これは凄い、と思った。
また、カイジュウそのものの全体像も最後までわからなかった。どこが手なのか頭なのか、かあれは触角なのか羽なのか。
この、「わからなさ」を手放さなかったことに大拍手したい。わからなくていいんだ、というメッセージとしてわたしは受け取りたい。
そして最後に剥き出しになった身体の弱々しさ、やわらかさ。羽化したての昆虫か、脱皮したての甲殻類のような頼りなさ。「生まれたてのなにかを見ている」と感じた。
最後にゆっくりと立ち上がる様は、横から射す光に「産毛が輝いている」と感じるほど、繊細で感動的な時間で、素晴らしい踊りだった。立ち上がる様が、踊りそのものだと感じた。
ほかの4作品もそれぞれいろんな思考をさせてくれたが、この作品に関しては、思うよりも感じる時間が圧倒的に多かった。それが七海さんの作品をまた観にいきたいと感じたいちばん大きな理由かもしれない。
たのしく愛しい時間でした。
私は獣人をこよなく愛するニンゲンの学生だ。だからこの文章は批評というより、オタク丸出しの感想として読んでほしい。
火野7の作品『χ10(カイジュウ)』を観て、まず私が興味を持ったのは、尻尾(しっぽ)とは何かという問題だ。尻に生える尾だから、尻尾。それなら火野7の肩甲骨辺りから垂れ下がった尾は、背尾(せっぽ)とでも言えばいいのだろうか。スピーカーから響く不穏な低音の迫力は、さながら『ゴジラ』のメインテーマ曲である。暗転したステージ上に薄ぼんやりとカイジュウは現れ、我々に危害を加えるつもりはない様子でクネクネと背尾を揺すっていた。ただし、その顔はどこにあるのか分からない。白い体毛で巧妙に隠された表情と手足は天地を縦横無尽に掻きむしり、正面を自在に操る。照明に照らされたその姿は、時に笑っているようにも、不用意に近付くなと威嚇しているようにも見えた。
我々ニンゲンは日々進化する。生まれた時は四足で這い、気付けば二本足で大地を踏み締め、再び床へ臥す。「カイジュウ」とは、社会の中でガムシャラに生きる生命体そのものなのだろう。何度か繰り返される脱皮のようなその仕草は、生命の循環を強く感じさせるものだった。手塚治虫が『火の鳥』で輪廻転生を描いたように、火野7は身体で生命を表現するのだ。堅苦しい社会に辟易して自然に帰るのでなく、そんな社会の中で好きなように生きる。火野7はカイジュウなのだ。
そのあり方は着ぐるみを着ることで己を曝け出す獣人化コミュニティ、Furry fandomの思想にとても近い。不平不満から尻尾を巻いて逃げるのではなく、向こう見ずに踊り狂うケモノこそ、私がなりたいものなのかもしれない。
作品の最後で、背尾も毛皮も脱ぎ捨て現れた彼女は、決して裸ではなかった。そのまま皮膚と思しきものを突き破り、「人間」の着ぐるみの中から小さなプランクトンが手を振って現れても、私は深く頷き拍手をしただろう。彼女の出した答えを受け入れる私も、カイジュウでありたい。
身体のパーツが入れ替わり、膨張したり萎んだり、ありえない形に変身する。それはダンサーの多くが夢見ること。着ぐるみを纏っているのは始めに認識できが、しかしどちらが頭でどちらが脚か全く見分けがつかず、サイズの判明しない謎の生物が中に潜伏しているようにも感じれる。目が慣れてゆき、おおよその状況を理解できるだろうという一般的な感覚をはるかに超えて、舞台上の物体は謎めいたまま。さらに驚きは殻を破って出てきたダンサーが想定以上に巨人に見えたこと。普通トリッキーな衣装の中から人が出てきたら小さく見えるものだろう。とても具象的な背骨のオブジェが衣装から取りはずれ、それによる遠近感なのか、あるいはダンサー自身の技量なのか。まさにタイトル通りのχ10(カイジュウ)、生身の身体が伸び縮みするマジックにかけられたようなダンス作品だった。

『適量を超えた恨みを込めて』演出・振付・出演:後藤禎稀(Super D)
開始早々スクリーンに映し出される言葉と呼吸音で、舞台に立つ男は差し迫った状況を抱えているとわかる。早口で捲し立てるかのようなエネルギーで激しく踊るが、後藤の動きはとても丁寧で振付もクリア。そこから、乱暴さではなく切実さだけを選び取って伝えたいという意思を感じた。文字と身体をいったりきたりする観客の視線が作品のテンポをつくっていく。音がないまま展開されるが、時折映し出されるQRコードが、不穏な大きな音をたてて迫ってくるようだった。「いってらっしゃい」の英訳に切なさが溢れる。
空を見上げて雨の予感がするように、涙腺のゆるむ作品は始まる前から何かの気配を感じる。ただし本人は泣かせたい気持ちなど毛頭ないだろう。ありがちな音や光での泣かせる効果は一切省かれている。終演後トークで、言葉と付かず離れずの過程について話をされていたが、それは言葉が持つ情緒との距離の置き方の問題ではなかろうか。言葉とは別に動き自体が丁寧に紡がれていく。いかなるソロダンスのジャンルでも、それが緻密になればなるほど数十分間の振付の継続には見る方も行う方も忍耐力が必要だ。コアな振付をはじめから最終まで遂行するための、言葉は言わばクリエーションの伴走で、自ずとまとわりつく情緒を振り払う闘いを、言葉で語られている家族模様の危機感よりも一個のダンス作家が振付に向かう執念に方に強く感じた。それが始まる前からの何かの気配だったのかもしれない。

『L U M P』演出・振付・出演:高瀬瑶子
高瀬が客席に現れ階段を準備している時から、彼女にしか聴こえないリズムが身体中に流れていることが伝わってくる。黒い液体を体内に入れ、舞台上に落ちていくかのように踊りだす。はじめはスニーカーを履いていたため浮いている感覚があったが、靴を脱いでからは空間に身体が馴染むように動きも繊細さを増していく。全体を通して印象的な照明が続いたことと、あらゆる方向に重力が働いているかのような動きから、全てのシーンに「落下」のモチーフを感じた。空間にも体内にも静かに黒が広がっていくイメージ。
彼女から発せられる細かい振動によって生じる微細な音を、目を凝らして聴こうとするような時間だった。
無彩色の空間でひときわ異彩を放つ、燃え上がるような真っ赤なダウンジャケット。静寂の中、キュッキュッというダウンの擦れる音と動きに呼応する息遣いが耳に届く「動」から、降り注ぐ白い光のもとで佇む「静」、そして壁際から舞台中央へと躍動する「動」へ。
その鮮やかな展開の中、細く長い手足で紡ぎ出される妖艶な軌跡と、ふと垣間見える強い意志を秘めた眼差しに惹き込まれます。
そこに感じられたのは、もがき、抗うような女性の強さと弱さ。激しい感情を内包しながらも決して濁ることはなく、澄んだ水面を刃物でなぞるような鋭く洗練された美しさとして立ち上がり、心地よい余韻が残る公演でした。
“骨で動ける身体”とプロフィールにある。脱力して骨で動く場合、赤ん坊は首の頚椎から動くらしいしセオリーとして大人は仙骨から動きなさいという話はよく聞く。始まりの冒頭でステージ用の階段をわざわざ中央まで運び入れ、駆け上がる訳でもなくただ座り、真っ黒なドリンクを喉から流し込んで両手の指先の骨から震える。上半身だけで脚の骨は用いませんよという意思表示にも見えるし、本編での自由自在に伸びあがる空気と同化したような両脚のムーブメントの準備伏線とも言える。全てのシーンで照明・音響が何か舞台に宿っているのかと思うくらい美しいタイミングで入ってくる。スペースの使い方が秀逸。他の作品が映像を使うため、ホリゾントが白なのだろうけど、何も映すことなく白の壁を見事に使いこなしてくれる。ダンス愛のあるステージスタッフの面々に本気の仕事をさせるような力のある優れた身体性である。
この記事に登場する人
遠藤七海
1997年東京生まれ、東京育ち。小学生の頃からダンスを始め、中高生時代に演劇、大学でコンテンポラリーダンスに出会う。
2020年、立教大学現代心理学部映像身体学科卒業。
日常における「振り付けられた身体」に着目し、調理や飲食を取り入れたパフォーマンスを積極的に行う。
自身の祖母を題材にした『婆美肉考』にて、STスポット「ラボ20#24」にてラボ・アワードを受賞。
パフォーマンスや作品制作と並行して、舞台芸術の企画・制作にも携わる。最近ではアーティストのための実験の場「Co-lab」を定期的に開催している。
形式に捉われず、アートと食の観点から幅広くコミュニケーションを模索しており、地元・東京都大田区では、間借りカレー屋「コオドリ」を不定期で営業中。
2025年7月21日 時点
福島頌子
パワフルな身体と変幻自在な表現が持ち味。
様々な振付家の作品に出演する傍ら、自身での作品創作や企画主催、音楽家やダンサー、美術家との即興セッションにも力を入れて活動している。
これまで加賀谷香、皆川まゆむらの各氏に師事。
2025年4月には、皆川まゆむが演出・振付を手掛けるソロパフォーマンス『彼女の不在』に出演。
2025年7月21日 時点
火野7
幼少期からバレエやジャズダンスのレッスンを重ね、高校卒業後よりカリフォルニア芸術大学にてコンテンポラリーダンスを学ぶ。現在は大阪を拠点にダンサー/振付家として活動している。創作活動の傍ら、身体表現者のための英語を学ぶプロジェクトの立ち上げを計画中。
Instagram: @hinonana7
2025年7月21日 時点
後藤禎稀
京都造形芸術大学にてコンテンポラリーダンスを学ぶ。2019年Super Dを結成。
ルイス・ガレー、倉田翠、はなもとゆか×マツキモエ、Monochrome Circus、小倉笑、山下残、東野祥子の作品に出演。
青少年向けダンス創作WSのナビゲーターを務めるなど、京都を中心に活動を行っている。
2025年8月29日 時点
高瀬瑶子
幼少よりモダンバレエを始め、16歳より橘バレエ学校にてクラシックバレエを学ぶ。出産を経て進化/退化する身体との対話を重ね、”骨で動ける身体”をテーマにダンサーとして活動中。ジゼル・ヴィエンヌ、白井晃、森山開次、中村恩恵、近藤良平、青木尚哉等の作品に出演。近年では能や演劇、光など他ジャンルとの協働により生まれる表現も探究している。また、ダンサーならではのアプローチで子どもの教育に携わるべくワークショップなども行う。
2024年5月8日 時点


