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【公演レビュー】留学NEXT 『袖にみなとの狂騒ぐ』(文:竹田真理)

2025年7月25日(金)26日(土)の二日にわたって公演された
留学NEXT『袖にみなとの狂騒ぐ』

『国内ダンス留学@神戸』1期から10期までの修了生の中から9名のアーティストが新作公演に挑みました。

本記事では、2012年から開催している『国内ダンス修学@神戸』1期から公演を見続けて下さった批評家・竹田真理さんによるレビューを紹介いたします。

▶︎公演概要はこちら

 

写真:Junpei Iwamoto

 

留学NEXT
『袖にみなとの狂騒ぐ』 レビュー
文:竹田真理

 

聞き慣れないタイトルの「みなと」の一語は、港町神戸との、あるいはその名も「湊川」(みなとがわ)が地区の西側を流れる新長田の町との縁を思わせる。この町に滞在してダンスを学ぶ「国内ダンス留学@神戸」へのオマージュを込めたものと言えそうだ。種を明かせば、伊勢物語の一節「思ほえず袖にみなとのさわぐかな」からの借用である。「港に波が打ち寄せて騒ぐように、袖に涙がひどく流れる」(デジタル大辞泉より)と激しい感情のさまを述べるこの文節に、演出・振付の下村唯は「狂」の一文字を足して「狂騒」の語とした。狂騒、熱狂、騒乱、お祭り騒ぎ。ディオニソス的なダンスの力の源泉に思いを至らせるタイトルである。

ではそうしたディオニソス的狂騒に彩られた舞台であったかといえば、そうであったと言い切れない複雑な様相を本作は呈している。公演は2012年より開催されてきたNPO法人ダンスボックス主催の「国内ダンス留学@神戸」で学んだダンサーや振付家によるもので、先述の下村唯、リハーサルディレクターの中間アヤカ、出演のダンサー7名の全員が年度の異なる国内ダンス留学@神戸の修了生である。今公演のためにテンポラリーに結集した者たちの間ではライバル意識や競争心、まして狂騒への強いパッションが漲るというより、互いへの敬意と配慮により、この一度限りの公演を祝福された場にしようとする献身的な意識がはたらいていたように見受けられた。7名のダンサーのそれぞれを筆者は年ごとの成果上演やその後の出演舞台などで見てきたが、一人ひとりが十分という以上のスキルと個性を備え、それぞれの方向性で成熟をみているダンサー達である。そんなある意味ばらばらの身体をもった7名は、互いの個性をぶつけ合うよりは尊重しあい、上演はむしろアポロン的な理性と調和によって運ばれた印象がある。ただしこれは“真水の”ダンスシーンについて言えることである。様相の複雑な所以は一つには場面数の多さにある。一つのドラマが線的に進行するのではなく、個別に完結した全12場が互いに関連したりしなかったりしながらポップアップの画面のように作品に畳み込まれている。


※公演前から舞台上に置かれている木枠のキューブ

 

構成について下村から示されたキーワードは「ロンド形式」。A-B-A-C-A-D-A-E…と主題がエピソードを挟みながら進行する音楽の形式に倣うものだ。公演本番を見た限り、繰り返し現れる主題は二つある。ひとつは前述の“真水の”ダンスシーンで、純粋なダンスのムーブメントが展開される。これをAとしよう。もう一つはときに台詞を用いた演劇的なシーンで、キュービックな木枠のオブジェを動かしながら寸劇調のパフォーマンスが幕間的に差し挟まれる。こちらをA’としよう。A’は下村が横浜ダンスコレクション2019で受賞した『亡命入門:夢ノ国』のスタイルを踏襲しており、木枠のキューブもここにすでに登場している。キューブは文脈により意味を付与される概念的な小道具で、下村の作家性を象徴するマテリアルである。本作『袖にみなとの狂騒ぐ』はこのA’から始まる。ならばこの寸劇シーンのほうをAとすればよいではないかと思われそうだが、本公演が国内ダンス留学を記念するものである限り、ダンスを最も中心に置くのが筋だと考えた。寸劇シーンの方は10期に渡る学びの中から変異として零れ出た下村唯の作家性の現れと見るのが適切だろう。

舞台中央には開演前から件の木枠のキューブが積み重なっている。ここにダンサーが5人登場、一人が一つずつキューブを手に取って運び、別の場所に移動してあらたに積み重ねていく。積み上がったものはちょっとした構造物と言っていいが、これについて5人が「どう?」「いいかんじ」「フツー」などと感想と述べ合う。と思うと再びキューブを運び別の場所へ移動、またもやキューブが積み上がり、互いに感想を述べ合い……冒頭ではこれが数回繰り返される。積み上げたものが何であるかは問われず、行為の目的も明かされない。5人の相互の善意により民主的、献身的にものごとは運ぶが、それが何に資するのかを誰も知らないまま、オチもキメもない行為が反復していくのだ。ここに別の二人がこれまたナンセンスなことにモップを手に舞台に現れ、床掃除を始める。ここまでがA’、いわばプロローグだが、すでに十分に不条理の香り立つシーンである。


※木枠のキューブを並べ直すシーン。

 

舞台両袖のドラムセットにミュージシャン(仁井大志、松尾哲治)が入り、ダンサーのいはらみくが「はじめます!」と発したところで舞台は本格的に始動する。キューブの5人とモップの二人の総勢7人がここからたっぷりとダンスシーンを展開、ユニゾンで、4人対3人で、あるいはさらに編成を変えながらドラムスの叩き出すリズムとともにめくるめくダンスを繰り出していく。この序盤のダンスシーンの存分なボリュームとクオリティは、本作が信頼に値する内容を備えるものと示すのに十分だった。動きにスペクタクルな要素はなく語彙はむしろ日常的な身体感覚に即したもの。派手な目を引くアクションのかわりに、等身大で、フレーズを作らず、短いストロークによるシンプルな振付が舞台上の時間と空間を隙間なく埋めていく。

ダンサーたちはそれぞれにカラフルな服を着てばらばらの身体で踊る――ダンスの出自、積んできた訓練、拠って立つ技術、ベースとなる言語、これらを異にするダンサーたちが舞台のそこここで泡立つように踊っては、他へと焦点を移す。技術やメソッドを同じくするカンパニーであれば立ち方、呼吸、動機を合わせた緊密な連携のもとにパフォーマンスを推進していくだろう。だが国内ダンス留学の経験という一点のみを同じくする7人が上演の場で共通項を探しながら舞台を運んでいく様には、別の集団原理が作用していたように思われる。泡立ちやざわめきを湛えた全体がざっくりとした流れを生むような、あるいは何かが突出することなく削がれることもなく、完遂されない幾つもの動きがあるバランスの中で推移するような、動的平衡とでも言いうるような状態の現れがある。互いの間にはたらく尊重や配慮は、ある意味、市民的な理想社会のあり様を体現してさえいるようだ。この調和と平衡とバランスの実現には今公演で設けたリハーサルディレクターの役職も奏功しているだろう。7/8拍子に7人それぞれが動きを作り共有したという本作の振付の手法、かつ、その振付を個々のダンサーの判断で即興的に発動していくというリハーサルの実践方法においては、俯瞰して方向性を見定め、調整しながらシーンを具体的に構成していく視点が不可欠だったと思われる。


※出演者全員で踊るシーン

 

序盤におけるAおよびA’の二つの主題の提示に続いて、エピソードにあたる各シーン(B,C,D,E……)が現れる。シーンとシーンの間に内容的な脈絡はないが、前のシーンの末尾が次のシーンの頭に重なるラフなつながりを見せつつ、シーンごとにダンス、演劇、パフォーマンスと多様な形態が入れ替わる構造は、遥かに仰げばピナ・バウシュ、近いところではコンドルズの舞台を彷彿させる。そこからノスタルジーを差し引き、政治性を加味すれば、下村唯のナラティブが現れる。

エピソードとは、例えば二人の人物(楠田東輝、高瀬瑶子)が額を密着させて睨み合っている意味深ながらナンセンス極まりないシチュエーションとか、白い服を着たトリオ(桂阿子、長野里音、松本鈴香)が床に横たわり動く様子を真上からのカメラが捉えスクリーンに映像を映し出す――この場合、床の水平面上の動きが垂直のスクリーンに投影されるとサーカスのエアリアルや、流氷の下を漂う生物クリオネに見えたりして可愛い――とか、中腰で力強く床を踏むユニゾンがハカを思わせて心沸き立つなど、いずれもはっきりと特徴的なシーンを独立して形成しており、それらがバラエティー・ショーの流儀で賑やかに繰り出されていく。


※楠田東輝(左)、高瀬瑶子(右)が額を密着させるシーン


※白い服を着た(左から)桂阿子、長野里音、松本鈴香によるクリオネのようなシーン

 

中でもハイライトといえるのがパペットの演説シーンだろう。中央に積み重ねたキューブを檀上に見立て、パペットの戯画的な表情にリップシンクさせて、「申し訳ございません!」と繰り返す演説の発語するほどに高まるテンションと空虚さは、先般の参院選挙が記憶に新しいという時宜を得て、この国を覆い尽くす政治状況の不条理さへの痛烈なパロディとなっている。内容は一切語らず語調でのみその如何わしさを伝えるテキストの秀逸さに、下村の異才ぶりが存分に発揮されている。


※パペットの演説シーン。操演を楠田東輝、声を宇津木千穂が演じた。

 

さらにこれらのエピソードを挟んで提示される演劇的主題A’においても、ベケットもしくは別役実を彷彿させるナンセンス風味をまとったパフォーマンスが、下村の批評性を、都度、打ち出していく。相変わらず木枠のキューブを並べ直しては、何処かへの道を延伸させる作業に勤しむ“市民”たちが、ふとその途上で「私は何をしているのか」と呟き、現実との奇妙な乖離に立ちどまる。こうしたメタ思考が本作を、エンターテイメントとしてのショーに留まらない哲学的パフォーマンスのフェーズに押し出している。


※(左から)楠田東輝、高瀬瑶子、いはらみく、宇津木千穂のシーン

 

ロンド形式で構成された多様なシーンの中に、調和とバランスのダンスパフォーマンスと特異点としての下村唯の想像力の2つの主題を対比的に反復、変奏する本作。最終場面のダンスシーンに見られた非/多焦点の徹底、エネルギーの自然な流れに即した群舞の遂行は、日常性、等身大であること、リアルな身体感覚に根差した語彙といった国内ダンス留学で培われている言語・美学の中央値を示していたと言えるだろう。神戸の新長田という一つのローカリティにおいて、2012年よりコロナ禍をはさんで13年、10期にわたり実践されてきたダンスの価値の体現である。それはまた見守ってきた観客にとっても自身の記憶に訴えかける、親密さと愛着とリアリティを投影できるダンスと言うことができる。

 

こうした美点は必ずしも2025年現在のダンス界の動向——身体の可動域を限界まで使い、新たなスペクタクルを志向する――と軌を一にするものではないが、身体が実体をもった存在である限り、具体的なローカルの場における学び・作り・踊りの実践の先にこそ現在があるとする言説は一つの真実を示しているだろう。本作のダンス観はある時期のダンスの傾向、いうなればポストモダンダンスの影響圏のもとにあるように見受けられ、その技法や美学が様々な積み重ねを経て今日の我々の血肉化されたダンス観を形作っていることを明確にしている。かたや、同時代性はローカリティと並んでコンテンポラリーダンスの主要な価値である。二つの価値をどう担保していくか、年ごとに課題を見出し方針を打ち出す国内ダンス留学@神戸のこれからの10年が注目される。

ダンスシーンについてさらに一点言えば、この配慮に満ちた平衡状態、ある種の「ゆるぎなさ」の中に上演がとどまっていると感じられたのも事実だ。当日パンフレットには下村、中間、出演の7名による「袖のエピソード」と題された文章の記載がある。各々が「涙で濡らす袖」を「舞台袖」に読み直し、舞台に立つ直前のひりつくような震えと高揚を綴ったもので、踊りを人生の選択としたダンサーたちの覚悟と希望が言葉にされている。この情熱が平衡状態を破って発動したら、その時こそタイトルに込めたダンスの狂騒を巻き起こすことになるのではなかろうか。そうした中、「破れ」への兆しを感じさせたのは、終盤近くに宇津木千穂が見せたごく短いソロだった。ドラムスがフリースタイルで変則的なリズムを叩き出し、ダンサーの身体から不定形の動きが即興的に引き出されるとき、破れ、猛り、煽り、荒ぶるディオニソスの狂騒が音に共振する身体に発露する。ドラムスがライブで叩くビートは本作においてダンスを発動させる最大の動機である。ここに下村唯のベケット的想像力が相乗したとすれば、途轍もないパトスとナンセンスの饗宴が繰り広げられるだろう。一つの可能性として次の10年の留学NEXTに託したい。


※終盤、宇津木千穂(中央)のソロシーン

 

 


 

執筆者プロフィール/竹田真理

神戸市在住のダンス批評家。関西を拠点に批評活動を行い、毎日新聞大阪本社版、国際演劇評論家協会関西支部評論紙「Act」ほか一般紙、舞踊・舞台芸術の専門誌、公演パンフレット、ウェブ媒体等に執筆。ダンス表現を社会の動向に照らし合わせて考察することに力を注ぐ。国内ダンス留学@神戸は第一期からすべての成果上演を見ている。

この記事に登場する人

竹田真理

東京都出身、神戸市在住、関西を拠点に批評活動を行う。毎日新聞大阪本社版、国際演劇評論家協会日本センター発行「シアターアーツ」ほか一般紙、専門誌、ウエブ媒体等に執筆。ダンスを社会の動向に照らして考察することに力を注ぐ。

2025年5月11日 時点

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