ACDF通信04
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vol.1 vol.2 vol.3 vol.4 vol.5 ■vol.6■
Asia Contemporary Dance Festival04が終わって、はや一週間以上が経ちました。
大変遅ればせながらですが、「 ACDF通信04」最終号をお送りします。
この場を借りて、急なお願いにも関わらず、「 ACDFへの視点」にご執筆をいただきました上田假奈代さん、岩佐好益さん、甲斐賢治さん、菱田信也さんにお礼申し上げます。ありがとうございました。
では、次は多分 2年後です!! どうぞ、お楽しみに!!!!!
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フューチャー・ビヨンド・ロゴス。
アジア・コンテンポラリーダンスフェスティバルが終わり、テレビで異様に強い日本のオリンピック選手をダラダラみていて思う事がある。
スポーツにはルールがあり、目的がある。現代においてそれは合理化され、科学的なトレーニングが日々、開発される。結果が結果として提示され、選手の評
価も数値化される。今、日本は金メダルは何個だったか?
しかし、そんなスポーツの分野でさえ、そういった科学的な合理性だけでは人間本来の力の全てを出し切る事ができないというのはもはや常識であ
る。「95%までは科学的、合理的な知識とトレーニングで到達できる。残りの5%は理性を超えた所にある。」とお世話になった人がいつも言っていた。
その5%の力とはいったいどういうものかいつも考えていた。
オリンピックや他のスポーツを見ていて、選手が何かを成し遂げた、その瞬間の目というものは月並みな言い方だが、こわいものがある。ぼくはそれを畏怖の
念をこめて「イッてる。」と呼ぶ。そんな目をした選手は、スポーツ選手として、そのとき最高の状態にある。負ける気がせず、なんでもできる状態だ。
もし貴方がその選手の相手なら、まず『目をさまさせる』事を考えなければならない。大抵は失敗に終わるが、、、。
何を考えているのかわからない。
それは言語化でき、人と人とが共通して持てる概念として具体化できないという事だ。本人は何かを感じている、何かに突き動かされている。そうするべきだと考えるよりもはやく体が感じるのだ。映像を通してでさえそれを見てとる事ができる。
それを見ている受け手も同じであって、これは考えて理解できるものではない。感じるものだ。
パフォーミング・アーツにもこの話はあてはまる。ここでの『理性的に理解できるもの/概念』としては例えば、振り付けや作品構成、目に見える伝統メソッドの影響、等々が上げられる。
しかしここでも同様、そういったことはどうでもいい、むしろそんな事を超えた所に作品が存在する場合があると思う。そのよさを理由付けることは大変困難だ。良いのか、悪いのか、それもあまり問題ではなくなる。
もしその何か(概念化できないもの)をまったく感じられないのなら、合理的に考えてもそれは損失でしかない。受け取っている情報が全てではないということになるからだ。自分の家のテレビで映らないチャンネルがあればどうするか。チューンナップするまでだ。
だから受信者としては、さらに察知できる身体になりたいと思う。スペシャルなチャンネルの映りが少し悪い。
ピチェ・クランチュンが作品の上演直後に楽屋で象の仮面に手を合わせてお祈りをしていたのをかいま見たときにそう感じた。必要だと思っていたお祈りの時間よりはるかに長いお祈りだった。
また、アリフワラン・シャハルーディンがその仮面には神の精霊が宿っているからといって、悪い事をしたあとは仮面に謝り、目を会わせる事ができなかったと言っ ていた。
またその彼は、何か『不吉な空気を感じたから』といって出演前にいつも楽屋でコーランを唱え、楽屋から舞台袖までのたった2〜3mをくるっと少し回り道して通っていたと後になって語った。
彼等は確実に何かを感じ取っている。今までも存在したものだろうが、これからは『新しい』知となるものだとも感じた。
主催でもある大阪市の方が交流会で伝統芸能についての話でアリフワランに質問攻めにされていたとき、ふと「今の日本はもしかしたら自然を恐れ、敬うことを忘れつつあるかもしれない。」と語っていた時に今までの話が自分の中で少しづつつながり出していた。
伝統芸能の動作というものが、視覚的なものとそこにある精神性の一致を目指したものかもしれないと勝手に仮定すると、現在は視覚的なもののほうが人に影響を与えているかもしれない。
(これは二元論では済ます事のできないものを二つに分けているとも言える。そしてそれは売り買いされ、商品になる。伝統っぽいモノがなければ海外では必要とされない、また生きる為にそうするアーティストもいる、といった話もあった。それをしない人はさぞかししんどいだろう。)
しかし、伝統芸能から見た目の形が変わったとしてもその精神性や、ここで言う『何か』を確実に感じ取り、意識しているアーティストがいたということは救いではある。
進化し続ける現代社会にこの『新しい知』を持つ新世代がじわじわとそれを広めてゆく姿を想像すると愉快でたまらない。彼等はまた、情報化社会の中でも自由に歩く術を心得ている。つまり、自然や伝統の良さに反対するものとしてのテクノロジーの発展という発想が元からないのだ。
いずれ彼等が未来の伝統を創りだすのではないか。
そういうアーティストにもっと会いたい。アジア・コンテンポラリーダンスフェスティバルはそういった所に可能性があると思うし、そこにやるべき価値はある。自分にもまだまだやるべき事も多いのも承知だ。
盆になり実家に帰った。そして久しぶりに墓参りをした。
(塚原)
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自分コラムの逆襲より
「キムチ・チョコレートの誘惑(8.3.コラム)」 → キムチとチョコレートのような戦慄な出会いは、「フィジカル・シンポジウム」で巻き起こったのではないだろうか。第1部の「ACDF04」出演者でのセッションでは、普段のアーティストの気質というのか、その人となりがよく出てきたように感じた。それぞれが何を話し、これから何を話そうと目論んでいるのか、そのような緊張感が連なり、次第に高まりながら暗転。第2部では、関西代表として垣尾まさる、隅地茉歩、竹ち代毬也が加わる。異分子のごとく混入しては暴れ出し、ぐいぐいと第1部の空気を開いていった。風が通った。そして第3部は、観客席から6名が加わった。中には、共同主催でもある大阪市サイドから3名。毅然とこの場に立たれた。そして、観客席からの男性一人とピチェとの抱腹絶倒なセッション。この場そのものが様々な出会いを生み出す磁場であった。たくさんの磁力が、充満していた。私は、終わった後、すごく興奮していた。この場に出会えたこと、嬉しかった。
「ダンサー気質(8.5.)」 → フィジカルシンポジウム終わりで、ACDF恒例のお楽しみプログラム「スイカ割り」を行った。やはりダンサーである。普通に割らない。パクさんが最終的に割ったのだが、棒を振り落とす時に床まで落としてしまわず、当たってないことが分かったら、次はスイカの高さに合せて横向きに振った。うむ、もしかしてこれはダンサーだからということでもないのかもしれない(~_~)
「ACDFポスターはどこへ行った!(8.7.)」 → 最終的には15枚貼った中、7枚なくなっていた。公演アンケートを読んだら、地下鉄での駅貼りで来て下さった方が、過去最高に多かったのではないだろうか。企画者サイドながら、渋くて、重力のあるチラシ/ポスターだと思う。お知らせにも書きましたが、ご希望の方にお渡しします!!
「打上げ、錯乱!(8.8.)」 →
あれから、特にDANCE BOXの飲酒量は変わっていない。多分、これからも。
「マレーシアで見たこと、今日聞いたこと(8.2.)」 →
実際に作品を観たときに、「マレーシア的」な表現を、探そうとは思わなかった。(公演全体を通してもそうだった。)普段の会話や、リハーサルに立ち会う中で、そのような眼鏡をかけて見る必要がないと思ったからだ。
私は、その人個人の発する言葉を聞こうとした。
そして、その言葉の背景にある、今までの経験や、その「国」についての事や状況を想像した。知ろうと思えば知れるのに、不勉強であることが多過ぎると痛感した。
「おやじの背中」ならぬ「作者/ダンサーの背中」だった。いつでもからだ全部を鰓(えら)のようにパクパクさせながら、身の回りにある様々な事や状況などを、捉えること。そして自分自身のフィルターにかけながら、それらを落としていく。閉ざされない中で、自分の今いる地点を確かめる。そこで、他者の言葉を受けることができるのだと思った。26歳にもなってだが、今回の私の収穫はそれらを身をもって知らされたことにある。
次は2年後だ。
これも、今回のACDFで感じたこと。舞台上の言葉の背景なんぞ想像する余地もないくらいの、ぶっ飛んでいて、剥き出しで、傲慢で、切実で、今を強烈に実感させるような、まだ見たことのない、世界の果てまで引きづり回されそうな表現に出会いたい。 → 続く
(横堀)
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編集長会議8月19日
Y:2年後、私たちは何をしているのでしょうか。
T: この会議のくだらなさをポストモダンとを無理矢理つなげようとしつつも失敗してやっぱり、おもしろくないと言われるのですよ。
では次回、二年後で。ばいなら。
編集:塚原悠也、横堀ふみ
発行: NPO法人 DANCE BOX