追われる一組みの男女、その二人を追う男。話はその真正面に座った二人を追う男のインタビューにひたすら答えている者という設定の約5分〜8分の一人芝居で進む。「一人芝居」は各人のスポット照明が付いた時に開始。ただしその順番は全3回公演すべて変え、順番は一切、出演者には知らせない。つまり本番の舞台上にて知ることになる。合同稽古はせず、他演者のキャラ、設定、内容も一切知らせない。出演者同士の「配役」情報交換も禁止。もし明白なった場合は本番直前に配役設定を変更する。 舞台上の役・人物はお互い 面識がない、およびお互い別空間に置かれた設定なので他演者が面白いことを言っても笑うことは許されない。だからといって他演者が「語っている」間、「死んだ状態」「休んだ状態」になっている演者は「失敗」と判断する。菱田信也が本番の音出しをするが、随時、ブッツケ本番でBGM音を出す。音楽の内容は当然、毎公演変える。日常、人と会っている喫茶店で松田聖子の曲がかかっても何ら不思議ではない。どのような曲がかかろうと反応してはならない。そして全員、開場から終演まで2時間強、舞台上に居続ける。
 
蟹を食べる行為。甲羅をはがされて、中身をさらされ、身を食べ尽くされる。それがまるで人間の様だ。真正面にいる見知らぬ初対面の男に、自分の他人には触れられたくない部分をえぐられていく恐怖感と舞台上での役者としての恐怖感。蟹京都とはそんな極限にさらされた人間の“本物の”恐怖感を見せる舞台である。人間が何かに打ち勝つ姿、もしくは負ける瞬間、打ち砕かれる瞬間をいかに鮮烈に見せられるか、そこに人は感動するのだと、菱田信也氏は言う。


(上田)
HPにダンサーに勝てる?芸人と戦うと書かれていますが、役者とダンサー芸人とを戦わせるのはなぜですか?


(菱田)
蟹京都を書くきっかけとなった点が2つあります。まずは喜劇でも悲劇でも舞台上で再現される人間ドラマが嘘に思えた時期がありました。もちろん芝居は嘘の上に成り立つものなのだけれど、もっと違う嘘の付き方があるんじゃないかと思ったこと。 2つ目は役者に対する疑問です。甘いよなあとふと思いました。


(上田)
それは表現するということに関してですか?


(菱田)
表現するものとして。例えばダンサーでもミュージシャンでも歩いていてもその服装、歩き方、オーラなどからアーティストであることはわかります。けれど、役者は一見わからない。なにか役者からでる“匂いたつもの”が感じられなくなりました。それで、どうしたら持とうとするのか、分かってもらえるのかを考えた時に蟹京都にたどり着きました。同じ土俵にたってみようと。役者は台詞も喋れるし、ダンサーの気配、ミュージシャンの色気等全てを内包していて一番強くあるべきなんです。


(上田)
蟹京都以降、役者は変わりましたか?


(菱田)
変わったかどうかよりも、芝居が本当に好きかどうかが分かったと思います。稽古をして終われば飲みに行く。もちろん稽古で出来ないことを話せる場としての意味もありますが、日が経つと稽古に来ているのか後の飲み会が楽しくて来ているのか分からなくなります。変な共有性ができるんですね。蟹京都は全員集まっての稽古はしませんからその辺りがはっきりするんです。


(上田)
今回何か変えられたところはありますか?


(菱田)
初演の際の問題点ですね。自分の台詞が終わったら安心して集中力の途切れる役者がいました。この芝居は“本物の”恐怖感や危機感をみせるのだから安心した時点で終わり。今回はその集中力が切れない様、僕が音響ブースから役者を挑発します。役者は大変です。ダンサー、芸人、客、僕、そして下の大阪プロレスに勝たないといけませんから。

(上田)
兆発とは…?


(菱田)
いつになるかわからりませんが、必ず、また明かりをつけます。本番中、音響ブース
から「(真正面に座った相手の)男に・・・って言われたから、それにリアクションしてください」とメール送ります。明かりをつけた時、「喜怒哀楽」のダンマリ演技を完璧に見せていただきます。このレシピも毎回変えます。今時、何時でも何処でも携帯なるのは当たり前ですから、舞台上で携帯取り出して見てもおかしくないですよね。

(上田)
台本には追われる二人や演じる役柄の詳細情報も添えるのですか?


(菱田)
今回この芝居を書くのに表をつくりました。二人に関わる人間がどういう立場、愛しているのか、憎んでいるのか等、バランスをとる為に。役作りをするのに必要最低限は送りますよ。役者は作家の意図を探り、その通りに演じて安心する傾向があるので役者が安心するような役の方向付けはしません。それに追われる二人がどういう人物かはお客さんの印象に残った役者次第です。憎んでいる設定の役者が残れば二人は追われて当然だし、反対ならなぜあの人が…となります。どれが正解かはありません。日常もそうでしょ。よくニュースで「そんな事する人には思えない」とかやってますよね。それと一緒です。

(上田)
ひな壇に座っている役者は座る場所での気持ちの違いはあるのでしょうか?


(菱田)
孤独感が違うようですね。一番前の役者は自分にライトが当たっているのか後のライトなのかわからないというようなことも前回ありました。でもこの場所なら自分を一番表現できる、ということは言えてもこの場所なら出来ませんというのはおかしいですからね。
蟹京都は一番シンプルなかたちの芝居です。その役の人間として舞台上に居続ければいい。もし、観客に「印象」の残らないキャラが出ても一切、関知しません。芝居内容に影響ありませんので。実力の違いが明白になります。ライトがあたっていなくてもその気配をかもしだすのは役者のココ次第です。(と、腕をポンポンとたたく)



初演の時、24人(当時の出演者数)の一人芝居ということしか知らずに見、おもしろい推理小説を読んでいる様に約2時間強、この芝居にのめり込みました。今回、パワーアップ(役者にとっては高くなったハードル?)した蟹京都でどんな風にのめり込み、追われる二人の人物像がどうなるのか楽しみです。(聞き手/上田美紀)

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 岩下徹と東野祥子の30分2本勝負。即興というと、何かとてもワイルドなものが出て来そうな気がするが、今回が初顔合わせのふたりは、ワイルドどころか大変お行儀がよく、相手への気遣いを怠らない。気遣いというのは、互いの間に絶妙な距離を保つことだ。

 離れた場所からふたりが接近してくる場面は最初の山場。ここでは相手との遭遇に自分の踊りが乱されたりしないことが一流の礼儀のようだ。接触はなく、目も合わさない。それでも、関節ごとに振り出す細かい動きがふたりに共通していて、美しく共振したのは想定外だった。素早い動きが至近距離で放たれて、実にスリリング。

  第2部はコントラバスが存在感を増して、デュオというよりトリオに近い。奏者の斎藤徹は、弦をはじいたり、叩いたり、ノイジーな低音や、上澄みのようなフラジオや、ありとあらゆる奏法を駆使し、ときどき場所を移しながらダンスに絡む。場の展開を読み取り、手を尽くす、即興の名手だ。ダンスは次第にコントラバスに主導権を譲り、音のイメージを拠り所にする場面が多くなる。岩下と東野は相変わらず、お互いに遠慮しがちで、歯痒さに「仕掛けろ」と心の中で煽りたくなった。ただ一度、再びの接近遭遇で、双方が磁場の異常を感知したかのごとく、激しく反応して踊ったのは凄かった。今日の白眉はここかも知れない。それから終盤になって、東野の動きに応じていく岩下の優しさが滲み出ていたのも印象的だ。

  ともあれ楽器との一対一と、ダンサー同士のセッションでは、まったく取り組み方が違う。後者では身体と身体の関係性がひとつの大きなファクターである。今日は二人の控えめさが基調となっていた。そのあやふやさ、もどかしさもひっくるめて、見る側はうけとめればよいのだ。セッションを重ね、関係が馴染んでくると、また違った面が見られる気もする。

  即興を見るのは、サッカー観戦に似ている。たくさんの無駄なパス回しで時間が過ぎ行くうちに、局面の展開は急速に訪れる。華麗なプレーがいつ繰り出されるやも知れないから、ゆったり構えつつ集中を切らさない。即興セッションを存分に味わうには、見る側にもそんな特別のコードが必要であるに違いない。

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【日指貴子】
一番初めに驚いたのは、岩下さんの登場でした。ナチュラルというか、フツーにというか、とてもプレーンな状態に見えました。今から何かをするぞといった雰囲気が漂っていなくて、「え、開演?」と意外な気持ちになりました。開演後のアフタートークで、それが即興の大切な所なんだとわかったのですが。
この作品でみなさんも印象深かったのはコントラバスだと思います。そこにはもう教科書通りの弾き方なんかなくて、音楽をしている人もしていない人もびっくりしたことでしょう。でもなぜか、間違ってるなんて思わず、逆に、正しいんじゃないかと感じてきて、不思議でした。ダンサーのステップの音も、足をする音も、緊張感のある沈黙も、そこでは外に出たものだけが正しく、外に出たものすべてが音楽で、聞いたことのないリズム、二度と繰り返されない音楽が作られていきました。
最後、岩下さんの手が東野さんの背中に触れた時、なぜか「やった!」と感動してしまいました。即興で作られていくものの中に、自分なりに感じたものだけど、何か物語や対話を見つけた時、おもしろい!とくつくつと湧いてくるものを感じます。即興も一度やるとやめられないものなんじゃないかなぁと思いました。

【上藪恵美】
3人それぞれの個性を、アクティブに、エキサイティングに、魅せてもらえたことに感動です。即興セッションを観るのは初めてで、2回の公演をほぼ同じ位置で観ました。 1日目はそれぞれが伺っているようなところを感じて、 私としてはもっとぶつかってほしい、と思っていましたが、2日目は「これほど変わるのか」と思いながら楽しませてもらいました。
無音とでもいうような静かで自然な動きが、流れるように生まれてくる岩下さんの踊り・・・と。
強度ある身体で次々と生まれる、ある種の機械のような動きを持つ、東野さんのダンスの強烈なパワー・・・と。
変幻自在の音を生み出しそうなワクワク感を感じさせながら、常に対等な交感をする音を創った斉藤さん・・・と。
3者の感性のぶつかりあいの中から生まれ、この瞬間に生きた、多様な表現の素晴らしさを感じさせてもらいました。

【横堀ふみ】
今回はできる限り客席と舞台を近くということで前へ前へとなるよう仕掛けてみた。客席が舞台に巻き込まれていく、もしくはその逆もある狙い。一概にだからとは言えないが、集中力がとぎれることなく持続したひとつの空間になってたのではないかと思う。今回は即興でありながら作品をみているようだった。作り込みながら瞬発的な意志でずらしていってるかのような瞬間が多くあった印象だ。それだけ繊細でクォリティーの高い踊りが繰り広げられていたのだと思う。そして、動物的本能の意志でもって切り込んでいったように感じたのはコントラバスの斎藤さんだったなぁ。素敵だった。
二日とももっとずっと見てたい、そんな気持ちになった舞台だった。


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