先日2月4日に京都芸術センターにて2月11・12日に公演を控えた田中遊氏演出の「円卓」の稽古を見に行ってきました。稽古場なんて初体験の私はステレオタイプに演出家が「違う!ばかもん!」と灰皿飛ばしてるのかと、おそるおそる扉をあけると、まず正面には長机に椅子5つが並んでいて俳優の皆さんがあちらこちらでウォーミングアップしてて、和やかな中にも廩とした緊張感の中、通し稽古が始まりました。演出の田中さんも代役で演技に参加。
6人の男女がそれぞれ手に本を持って、時にそれを読んだり、呟いたり、それぞれの話が本の話と交錯したり、結んだりほどけたり・・・何とも不思議で現実と虚構、明解と不可解、真面目とおふざけの間を行ったり来たり、ようわからん!でもなぜか自分の感覚にフィットする瞬間の波が所々に押し寄せてくる・・・何かある・・・と思ってたら終了。あっという間の稽古時間終了。
そして、インタビュー開始。あわわ・・何を聞こうか・・・。
(横田)
いきなりですが、メンバーは1人でも「正直者の会」なんですよね?
(田中)
ええ。
(横田)
なんで「正直者」?そして「会?」
(田中)
大学で演劇部に入っててその後も活動を続けるにあたって、当時の仲間から名前を募ったらロクなん出てけぇへんかった・・・例えば「関西改造計画」略して「KKK(Kansai-Kaizou-Keikaku)」とか・・・「それク−クラックスクランやん!」て(笑)。で、結局僕が付けたんです。ほんで段々仲間も減って行って僕だけがその「会」に残ってそのままにしてるんです。
(横田)
「会」は取らないんですか?
(田中)
もともと命名当時のコンセプトでもあったんだけど、演じる人、僕がいて、それを見るお客さんがいて「会」になる。だから1人だろうとお客さんがい限り「会」なんです。
(横田)
今回の作品の発端は何だったんですか?
(田中)
ひとりで芝居をやってきたその延長上やね。ひとりで芝居をやってるとお客さんの想像力と自分とで芝居を成り立たせてる。例えば、1人で誰か相手に向かって話しかけてるシーンがあったら、お客さんにその見えない相手を想像してもらうわけでしょ?だからお客さんが想像しやすいような舞台環境作りを考えて芝居を作ってた。でも、これが二人になったらどうなんねやろ?って思って二人芝居やって、4人やったら?て、4人芝居やって。んで今回6人芝居に。
(横田)
作品のテーマとかアイディアとかはどこから?
(田中)
普遍的なテーマとかってよく議論されたりしてますけど、そういうもんではないですね。そういうテーマにしてしまうと何だか観客の視点が舞台上になく
なってしまうから、もっと自分の身の周りを軸としています。肌的なテーマですね。
(横田)
なるほど、稽古を見ていても日常の「それ、あるある!ふと、そんな事思ったりするする!」っていうシーンがたくさん断片的に出てきますね。それにちょっとした動作が効果的に取り込まれてるなと感じたんですが、演出の上で動作の振り付けはされるんですか?
(田中)
しますね。でも動作はあくまで最小限に停めます。今回はほどんど椅子に座って動かないし、ふりが多くなっても制御できないから。でも動作から発想を得て脚本を書く事もあるんですよ。
(横田)
へぇ。ダンスボックスは演劇だけでなくたくさんのパフォーマンスやダンス公演が盛んですが、何か動作とかに関しての考えはお持ちですか?
(田中)
ダンスとかって身体そのものがその舞台の上で問題となってるから強いなって思う。その点、芝居は「語り」とか「ストーリー」とか「テーマ」とか色々なものが舞台上で交錯してて、何か弱いなって思う事がありますね。だから舞台上で繰り広げられてる問題をもっと身体に引き付けたいと思う時もあります。
例えば、台詞の声が大きいとその台詞の内容より「大きい声」って事に意識がいってしまうし、かといって丁寧に読んでもその台詞の内容ばかりに今度は関心が入り込んでしまう。
でも、その人が少し口籠ったり、ぎごちなくなったりした途端、その人そのものに関心が移るんですよね。そういう意味で動作というか、舞台上での動き、振り、には気を使いますね。
(横田)
では最後に公演を一週間後に控えて、画面の前の皆さんに一言。
(田中)
・・・・・・え〜・・・。当日、僕は客席に潜んでいます。見ないで下さい。探さないで下さい。正直者なので芝居がよくないって時には顔に出てしまうので・・・・・・。
まぁ、出来るだけ舞台空間が「ぐにゃり」とする瞬間を多く体験してもらえれば・・・と思います。
舞台空間が「ぐにゃり」・・・。田中さんは何かひとつの決まりが崩れたり、ふとした事でその時の次元が変わったりする事にワクワクするそうです。稽古を見ていて、始めは普通に進行していたかと思うと途中から「くにゃ?」と何かが歪んで来たり、リズムが合ったりずれたり、スピードに乗ったり、・・・とても感覚的に見せる演劇だと思いました。
「正直者の会」は観客が想像力を使って参加して成り立つ、と。今週末はちょっと不思議な演劇で「??」と自分の感覚に正直に、正直者の会員になってみたいと思いました。みなさんもどう?(聞き手/横田茜)
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大阪BABAも後半戦に突入、このひと月足らずの間に、しげやんxドラムの一楽儀光、岩下徹x東野祥子、山田せつ子x寺田みさこ、と独特の魅力を放つアーティストたちのセッションに3本立ち会ったことになる。
岩下と東野は初顔合わせでお互いの距離を計りつつ、近づいては離れ、を軽い緊張のなかで繰り返していたが、今日の山田せつ子と寺田みさこは、寄り添って身体をあずけ合ったり、すっと離れて自らの遊びに興じていたり。「姉妹の時間」と呼びたい戯れの時を過ごす。親密で、それぞれ成熟した身体と言葉を持ち、互いの領分に入り込むのを難なく受け入れ、ほったらかしにしておいても無礼にならない。何の為にと一緒にいるのではなく、あたりまえにそこに出会い、許し合っている生き物たち。無為の時間の豊かさが、ふたつの身体の間にはあった。
主に音楽、そして時折、椅子や壁や、照明をきっかけに、ふたりには静けさ、激しさ、危機や悦楽の時、さまざまな状況が訪れる。それをどのような身体で耐え凌ぎ、乗り越え、生き延び、過ごしやるか。その時間がダンスになる。時を生きるカラダ。折々に結実しては散っていくたくさんのフォルム。二人の果実には別種の色や形や匂いがある。
タンゴ風の曲で踊る寺田に、ちょっとはすっぱで物憂げな表情が宿る。寺田みさこの踊りには、寺田の「これまで」が詰まっている。為す手がなく立ち尽くす時、見ている側は、寺田のパーソナルな投影のある普段の踊りが、どれだけの作業を経て舞台にのせられているかを逆に知らされる気がする。ここでは安易には動かないで、山田の独白に耳を貸し、その場の空気にゆだねていることもあった。
山田せつ子は、細く落とされるライトを鋭く見つめ、足先半歩に見える未来の兆しを掬い上げる。こういう時の山田の集中の力は本当に比類ない。振付されたのではない、繊細な仕草のひとつひとつが、次の一手を選び取り、一瞬先の未来をつかまえて小さく実る。実ったそばから弾け散って、形をとどめおくこともない。
タンゴで踊る山田が、とても素敵だった。女の人というのは美しい時の過ごし方を知っている。年の初めに見た「ROLL」の黒沢美香がそうだった。無垢で無邪気で高貴な時間。今日のふたりにも、それがあった。
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【上田美紀】
BABA通信で「女二人がやんちゃに遊ぶ姿を・・・」とおっしゃていたのですべて
のシーンを遊ぶことと結びつけて見ていました。
レインコートの時は雨と無邪気に遊ぶ。雨が上がったらレインコートと遊ぶ。
そこへやってきたまだレインコートを着ている人。
一緒に遊びたいような、ちょっとこわいような。
2本のライトの時、光と遊ぶ姿は新しいものに恐る恐る手を出しているような、でも興味津々なような何かそんな風だった。
遊ぶ相手は壁、椅子、光、雨、レインコート、そして最大の相手はお互い。
みさこさんが手を伸ばし、せつ子さんの手の甲を触った時にせつ子さんが振り払う仕草をされたのが印象的でした。
相手を拒否するように見えるのだけど、親があえて子供を突き放すような、それに似た愛情が感じられました。
大人になっても遊び心を忘れなければ、何とでも、どのようにでも楽しめる。
そして遊ぶ中にも凛としたものが感じられた、素敵な女二人の遊ぶ姿だと思いました。
【小坂井雅世】
違う人間が二人、自分の椅子を持って舞台にいる。
二人がそこにいるということが、緊張感を持ってせまってくる。
二人の個人の二つのダンスが拮抗している。
でもはじきあってはいない。
せつ子さんが色をつかまえ、みさこさんが色をきりひらく。そんな風に見えた。
【横堀ふみ】
二人にとってもはじめての組み合わせ。もしかしたら見てる私ら以上に二人はドキドキしてたのかもしれない。せつ子さんは、髪の毛一本から足の指先まで全身が皮膜のように呼吸し耳を澄ましているようだ。対してみさこさんは体中についている目が好奇心の塊のようにキョロキョロ(打ち上げの席では目ではなく毛穴が開いていると言ったのだが・・。)いろんなものを掴まえて食べてぺっと吐き出し熱を加え冷ましたりしてるよう。皮膚感覚から空間がいろいろに変容していく奇妙な感覚、あちこち細かく見たり大きく見たり、いろいろに楽しんだ。
今回が始まりだ。これからどんどん膨らんでいきそうな出会いやったと思う。
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